豊丘時竹の続続「平素の戯言」

エッセイでもコラムでも随筆でもなく、ミセラニーです。

企業は人間主義的役割を経営者従業員一体となってはたしていく場である

  太田述正コラムからのコピペである。

コピペの開始点と終点は紫色の文字とし、重点は赤色の文字とする。コピペ元のURL(イタリック)と書誌的事項は、コピペの直前に置く。

 

 

人間主義の好例となったゴーン事案を用いて「人間主義」を説明しているもののである。これを読むと、サラリーマン社長は案外安給料なのかもしれないと思えてくる。じっさいはなった経験がないから分からない。それで、東電の経営者のように裁判されたんではかなわないかもしれない。

なお、「皆さん、『スライド#2』の解説<です。>」とあるスライド#2は直近の下記のURLをクリックしてもらえばお読みいただけるが、URLの直下に「人間主義」の部分を引いて載せておいた。

   URL;https://www.ohtan.net/blog/archives/11809

[スライド2] 「日本文明は古今東西の諸文明中最も普遍的で高度な人間主義の文明である」、というのが私の現在の世界観の核心です。
 どうしてそんな大それたことが言えるのか、とお思いでしょう。
 和辻哲郎の本、『人間の学としての倫理学』に由来する私の造語なのですが、それが、人間主義・・ですから「にんげんしゅぎ」ではなく、「じんかんしゅぎ」と読みます・・の文明だからです。
 「人間主義とは、人は他の人々(等)との関係性において初めて人たりうるのであって、常に他の(過去から未来に至るありとあらゆる)人々(を含む生きとし生けるもの)の気持ちを汲んで言動を律するのが人としての本来のありかたである、という考え方」です。

 

 

URL;https://www.ohtan.net/blog/archives/12212

太田述正コラム#10322(2019.1.19)
<皆さんとディスカッション(続x3957)>

<太田>(ツイッターより)

 

[途中略]


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 皆さん、[スライド#2]の解説<です。> 

 私の造語である「人間主義」をちゃんと定義したことがなかったことを反省し、ちょっと前にここに掲げている定義をひねり出したのですが、人間主義とは何ぞやということの一端を分かり易く示してくれているのが、現在話題になっているゴーンの事案です。
 まず、ことの発端は、ゴーンが、日本での経営者・・オーナー経営者は除きます・・一般の水準に比べてかけ離れて高い報酬を求めたことですが、どうして、日本人の経営者は高い報酬を求めないのでしょうか。
 これは、そもそも、日本の企業そのものやその(大部分が人間主義者であるところの)従業員達が、日本の非営利組織同様、金儲けのための手段ではなく、企業は、当該企業が信じるところの、社会的な・・人間主義的なと言い換えてもよろしい・・役割を、できうることならば永続的に、経営者と授業員達が一体となって果たしていくための場である、と考えているからです。
 従業員達よりもかけ離れて高い報酬を経営者がもらうと、この一体性が壊れてしまう、というわけです。
 また、否認の被疑者・被告を勾留し続けたり、被疑者の取り調べに弁護士の同席を認めない、といった日本の刑事司法が、欧米諸国から人権に反すると批判されていますが、人間主義文明の日本では、人間主義者が多数を占めていて、日本以外の国に比べて、著しく犯罪が少ないおかげで、被疑者を「邪魔」が入らない環境で念入りに取り調べるなどという贅沢が許されるからそうしているのです。
 日本以外の国、つまり非人間主義文明の国では犯罪が多すぎて、とてもではないけれど、そんな手間暇をかけておられないことから、欧米諸国においては、被告に対する裁判の段階でもそうなのですが、その前の被疑者に対する取り調べの段階においても、ルールの下での官側と私人側の間での一種のゲームが、場合によっては陪審も交え、乱暴かつ粗雑に進行する、という形をとらざるをえず、とっている、ということなのです。
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