豊丘時竹の続続「平素の戯言」

エッセイでもコラムでも随筆でもなく、ミセラニーです。

ジーコ・清原・貴乃花

 コンフェデレーションズカップで、ジーコはブラジルから「引き分け」をプレゼントされた。私はそう感じた。私はプレゼントされたことを悪いと言っているのではない。逆である。本国人から尊敬されているのだと思う。昨日だか一昨日だか、相手の監督が、「ジーコが選手として出てくるわけではないだろう」、というようなことを言った。この言葉に、ブラジル人のジーコへの尊敬の気持ちがよく表れている。リップサービスでけっこう。同国人からこのようなことを言われてみたいものである。
 プレゼントされたことははずかしいことじゃない。誇らしいことだ。

 清原ははずかしい。体は商売道具の一つだろう。なのに清原の体は美しくない。坊主頭もピアスも体型も何もかも美しくない。どうしてあれほどの人気があるのか、私には分からないでいる。

 貴乃花の体も美しくない。今朝テレビで弟子に稽古をつけている様子を見たが、あばら骨のういた体は無惨であった。あそこまで減量することが必要だったのか。相撲取りは他人前(ひとまえ)に体をさらすのが商売である。美しくみがいてくれ。