豊丘時竹の続続「平素の戯言」

エッセイでもコラムでも随筆でもなく、ミセラニーです。

選択の自由

 選択の自由という重荷を背負おう、と太田述正コラムに出ている。少し前からかなり多めにコピペ(太字、一部赤字)させていただいた。URL(イタリック)と書誌的事項の下にそのコピペ部分をアップした。


 最初の選択は三つだという。この三つの中で、アメリカと合邦するというのが、私はあんがいいいような気がするが、読者諸氏はいかが思われるだろうか。


URL;http://blog.ohtan.net/archives/52169880.html
太田述正コラム#6163(2013.4.23)
<皆さんとディスカッション(続x1878)>



「私の考え方の核心はドグマの排斥です。
 ドグマは事実に即した論理的な議論を不可能にするからです。
 私が何よりも問題視するのは、権力を握っている側がドグマの虜になっている(虜になっているフリをしている)場合です。その国全てにおいて、事実に即した論理的な議論を行うことを不可能にしかねないからです。
 だから、私は吉田ドクトリンというドグマを墨守してきた自民党に反対ですし、キリスト教原理主義というドグマを信奉するブッシュ政権に反対なのです。
 ドグマ(イデオロギー)文明である欧州文明の問題性をアングロサクソン文明と対比する形で繰り返し取り上げてきたのもそのためです。
 私は、以上のことを、私自身の体験と歴史的事実に即して(常に典拠を明らかにして)コラムで三年間にわたって一貫して指摘してきたつもりです。
 その最大の目的は、特定のドグマの虜となっている読者に、自らの抱いているドグマと向き合い、そのドグマにとらわれているご自分を解放するという「意識改革」を行っていただくことです。」(コラム#0530。太田)


「イエンガーの研究成果を踏まえれば、憲法を制定するのは、その社会の構成員の選択の幅を狭めることで、彼等が思い悩み、不幸になることを回避するためだ、と言えそうですね。
 そう考えると、英国には憲法がなく、日本の場合は憲法私見では規範性がないということが、いかに異例なことかが分かろうというものです。・・・
 遺憾ながら、戦後の日本においては、吉田ドクトリンの下、米国を「信頼」し、米国の属国になることによって、日本政府の権限を大幅に狭めるという方法を追加的とることで、日本国民は、政治に関する選択の自由という重荷から二重に逃れているわけです。
 当然のことながら、他国たる米国が自国のように日本のことを親身になって考えてくれるわけがなく、おまけに米国政府は、戦前も、少しはマシになったとはいえ現在においても、戦前の日本政府に比べれば、その判断能力において格段に見劣りする存在です。
 だから、日本は米国から「独立」しなければならない、ということです。」(コラム#3988。太田)
 「皆さん、「選択の自由という重荷」を背負おうじゃありませんか。
 そのための最初の「選択の自由」はそれほどの「重荷」じゃありません。
 属国のままか、米国と合邦するか、米国から「独立」するかの三択ですからね。
」(コラム#4053。太田)


 リフレーン
 集団的自衛権の行使を首相に決断させよう
 http://blog.ohtan.net/archives/52004075.html


 リフレーン2
 日本と中国をいつまでも仲違いさせておくことは全欧米諸国の、ここ百年の基本戦略である(藤原正彦管見妄語」162、週刊新潮31号、平成24年から)