豊丘時竹の続続「平素の戯言」

エッセイでもコラムでも随筆でもなく、ミセラニーです。

 時間

 高校、大学のころは、時間を無駄に過ごすことが無駄なことだとは少しも思ってなかった。今は、自分に残された時間がなくなりつつあることを知りながら、有意義に過ごすこともなく無為に過ごすことがまだまだ多い。もういくらもないと理屈では知りながら、ぼやっと過ごしてしまう。あるいはパソコンに向かっている。あのころはどう考えていたのだろうか。
 時間の経過が早いのは、孫の成長を思えばすぐ納得できる。つい先ごろ女房に抱かれてべそかいた孫が、もう小学校の二年生である。我が家に来て人生ゲームをやろうと言うほどに成長した。もちろん一人で我が家に泊まってもいける。もう私には無限の時間はない。あのころは時間は無限だと思っていた。いや、時間の観念そのものがなかった。じゃなきゃあれほど高校野球(甲子園)を日がな一日見てたりはしなかったろう。
 今日も電車で女子高校生の一団がしゃべっていた。バスでも三人の女子高生がしゃべっていた。男言葉でやくたいもないことをしゃべっていた。彼女らも時間は無限だと思っているのだろう。