日本語教育史である。
日本語教育がどのような道をたどってきたか、を知ることを目的としている。それを知ることで、日本語教育が、いかにその時々の国際情勢・社会情勢の影響を受けてきたか知ることができる。
1、日本語教育史の時代区分
関正昭はこれを三つに分けている。
有史から1985年以前:学ぶ側が勉強していた
1985年から1945年の終戦まで:台湾領有以降、日本語教育が普及した時代
1945年以降現代まで:国際交流のための日本語教育の時代
である。
2、1896年まで
1)13、14世紀〜18世紀の中国・朝鮮半島
中国
『鶴林玉露』日本語がはじめて数語採録された。
その他『日本一鑑』(1565?、1566?)(当時としては最大の日本研究書、3404語収録)などの書籍が挙げられている。
朝鮮
「司訳院」(1393年設立、翻訳官養成のための官立の学校)で日本語教育
『伊呂波』(1492)(司訳院で初期に使われた教科書)、『捷解新語』(1676)(中期に使用された教科書)、『倭語類解』(1780)(日本語朝鮮語対訳辞書、3400語、雨森芳洲)、『隣語大方』(1790)(朝鮮語学習書(雨森芳洲などが編纂)を日本語学習書に直したもの)などの書籍が挙げられている。
2)国内における日本語教育
キリシタンの日本語教育である。聞いて話してキリスト教に改宗させることが目的であった。全く未知の言語が使えるようにならなくてはならなかった。
1549年、フランシスコ・ザビエル来日
1579年、巡察使ヴァリニアーノ来日
1590年、ヴァリニアーノ再来日、印刷機の導入、教議書と語学書の印刷
キリシタンによる書籍
1592年、天草版『平家物語』(やあやあ我こそは……、が会話の練習になった)(NIFON NO COTOBA TO……)
1593年、『伊曾保物語』
1603〜4年、『日葡辞書』(これが『日西辞書』→『日仏辞書』となり、この『日仏辞書』がヨーロッパにでの日本語学習の助けとなった。『広辞苑』には『日葡辞書』からの用例が多く採られている)
イエズス会、オーラルをまず習得してから書き言葉への流れで勉強した。ローマ字による会話教科書を作った。
ロドリゲスの日本語教育論
日本人教師で、言葉に精通し、学識教養を備えた者を教師とする
古典を教科書とする
文法と作文中心でローマ字を排除した
3)帝政ロシア
日本人漂流民による日本語教育
①デンベイ、日本語教師第1号
②サニマ、デンベイの助手
③ソーザとゴンザ
ゴンザは日本語のテキスト・参考書・辞書を作成
④サスケの子、アンドレイ・タターリノフ(日本名サンパチ)
1872年、『レクシコン』を編纂
⑤大黒屋光太夫、商人で教養があった。
新蔵と庄蔵、イルクーツクの日本語学校(1791〜1816年)で教える
⑥ウラジミール・ヤマートフ(橘耕斎)、日本語を教える
4)19世紀後半ヨーロッパ
キーパーソンはシーボルトである。
シーボルトが持ち帰った日本関係資料や著書がヨーロッパ人の日本に対する興味を掻き立てた。日本学と日本語研究勃興の端緒となった。
ヨハン・ホフマン
オランダライデン大学の最初の日本語教授(ヨーロッパの大学で初めての日本語講座である)。『日本文典』執筆
レオン・ド・ロニー
フランス人で日本語を学ぶ人は変人だった。福沢諭吉らと親交があり、福沢はロニーを変人だと書いているという。
19世紀になって
ヨーロッパ各地に日本語講座がつくられるようになった。
5)開国前後の日本、在外外国人による日本語研究
クルチウス(オランダ商館長)、『日本文法試論』→パジェスがこれを仏訳した
アーネスト・サトウ
ブラウン、丁寧体と普通体を分けた
ヘボン、『和英語林集成』(日本初の和英辞典、この辞書に描かれたローマ字がヘボン式ローマ字である)
チェンバレン、東京帝国大学博言科教授(日本言語学の父)
3、19世紀末からの日本の側からの日本語教育
1)日本に留学生が来るようになった
1881年 朝鮮からの留学生、3名、金玉均→福沢諭吉に依頼
1895年 下関条約 かっての属国に負けたと清は考えた。そこで清は、日本を通して西欧の科学技術を学ぶことにした
1896年 清国派遣留学生13名来日→加納治五郎に預けた
1898年 張之洞、『勧学篇』を著し、日本留学を勧める
1902年 宏文学院、清国留学生会館
その後、急ごしらえの日本語学校がつくられた。それらは「学店」「学商」と呼ばれ、非難された
チャンコロの言葉も生まれた
宏文学院について
1899年に加納治五郎が開いた亦楽学院が1902年になって留学生の塾、宏文学院になった。いい学校であった。教師に松下大三郎、松本亀次郎がいた。松下文法→橋本文法になった。松下文法は「って」が重要ということを主張した。松本亀次郎は、中国人教育に一生をささげた教育者である。
2)台湾 1895年領有
日本語教育をした。
1895年、井沢修二(初代学務部長)により「国語教育」開始。ベルの電話の相手をした。話し言葉重視の教育をした。伊沢修二は、飯沢匡の父伊沢多喜男の兄である
1896年1月1日、芝山巌事件、6人の教師が殺された
当時の国語教育は下手な台湾語で教えていた。そこで、山口喜一郎を中心にグアン法を取り入れた。直接法の始まりであった
高砂族
漢民族とは別に教えた。高砂族に教えることで、漢民族の抵抗を和らげようとした
3)朝鮮
1891年 官立日本学堂設立(岡倉由三郎が招聘された)
1905年 「日韓条約」以後、日本語が第二外国語になった
1910年 「日韓併合条約」以後、日本語が「国語」になった
1938年 第三次教育令により、朝鮮語が必修科目から随意科目にされた
リフレーン
日本は原爆をもとう。
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